人生は一度しかないと他人は言う。でも、一回で充分なんじゃないかと思うんだ。
「それは、またペシミスティックな意見だな」
「シニカルじゃなくて」
「それもある」
兄は携帯でメールのチェックをしている。付き合っている彼女がメールの返信にやたら喧しいのだ。
「『人はパンのみにて生きるにあらず』だよ」
「はあ?」
「即物的に生きちゃいけなってこと」
首を傾げて、兄は携帯を閉じる。
「なんかあったか?」
マグカップに紅茶のティーパックを入れてお湯を注ぐ。二つ用意して兄の前に置いた。
「ふられた。ぼくっていい人なんだけど男を感じないんだって」
「うわ。それは、堪えるな」
湯気の立っている紅茶のカップを掴んで兄の顔を見る。
「うん。通学路の途中の橋の上で人生を儚もうかと思った」
紅茶を一口啜って、兄が首を振った。
「ご近所に迷惑だろ。それに、あそこは浅いし、下まで二、三メーターの高さだ。自殺は無理じゃないか?」
「空き缶とかゴミとか浮いてて汚いしね。でも、鯉がいるんだ」
「鯉?」
「鯉は貪食だから死体を食べてくれる。そこが、あの川の利点なんだ」
小学生の頃、梱包用のスポンジを投げ込んだら食パンと間違えて貪り食っていた鯉の姿が脳裏に浮かぶ。
「ご近所迷惑が一気に解消だな」
「決められてない日に生ゴミを出すのと死体の放置は重罪だから」
ぼくはマグカップをテーブルに置いた。
「ここの町内会は容赦がないからな。身内の者に裁判抜きの私刑が執行されるぞ」
「警察も手が出せない」
「民事不介入の原則だ。母さんはパート先の職場だけでも大変そうなのに、そうなったら確実に後を追うな」
息子二人を大学にやる学資を稼ぐため陰口パラダイスの職場で鋭意就業中の賢母だ。
「だから、止めたんだ」
「自殺をか?」
「うん」
「偉いぞ。俺は感動した。家族思いの弟を持って幸せだ」
兄は腕を組んで頷く。
「それじゃ、そろそろいいか。部屋に戻ってメールを打たないと兄弟揃って女旱の憂き目に遭う」
「うん。聞いてくれてありがとう」
「いやいや。だが、これから先、最低でも一年間は俺を煩わすなよ。独占したいモード全開の彼女を持った憐れな兄貴を放っておいてくれ」
マグカップを持って兄は足早に退散した。『されど、パンなしにては生きることあたわず』である。
「了解です」
ぼくは兄の背中に手を振った。